こぼれび通りを東に、陸橋を渡って千里中央公園に入り直進すれば安場(やすば)池(約1万㎡)です。
千里中央公園は広さ14ha以上、コナラの原生林などあって都市域では珍しく自然の残された公園です。春には見事な桜とウグイス、イカルの美しい鳴き声に心が癒されます。この公園に命を与えているのが安場池ですが、この池が今残っているのには東町を中心とした住民の懸命な努力がありました。
1983年頃新千里体育団体連絡協議会(以下体協)の人達は、この池を埋めて運動グラウンドを造るよう豊中市に要求しました。
市ではその頃、新設小学校建設に伴う残土処理と、池の周囲での子どもの事故に苦慮していたので快諾し、1984年1月突然に工事を開始しました。
深い森の真ん中をある朝突然に残土運搬ダンプカー用の道路が造られました。何も知らない多くの市民はびっくりしましたが、中でも幼児野外教室「風の子」を千里中央公園でひらいていた木村見江さん達は、こんな事があっていいのかと、「千里中央公園を考える会」をつくり皆に呼びかけました。この呼びかけに応えた東町の中山一郎さんは、市民の他豊中,吹田の生態学者や、自然保護運動に関わる人達にも広く呼びかけて、安場池を守る会」を発足させました。
「守る会」の活動は目覚しいもので、日曜日毎に安場池に集まり自然観察会を開き、その結果を解説した印刷物を東町の全住民に配布しました。専門家延べ80人・一般市民延べ140人が参加し、鳥、昆虫、植生、水質、プランクトンなどの分野毎に調査し30頁からなる報告書をまとめました。結論として「都市部の池にしては珍しく自然生態系が豊かであるが、一部の埋め立てによっても池の自浄作用が失われ急速に老化する」としています。これらの費用は参加者のカンパによるものです。さらに5,500人に達する埋め立て反対の署名を集めました。
この間、市はやむなく工事を一時中断し、やがて池の埋め立て割合を80%から40%に縮小する折衷案を提案してきまました。
「考える会」は体協の人達と争いたくないからとその案に傾きかけましたが、「守る会」は先の報告書の結論から当然反対しました。
その頃には池の右側には高さ3mの鉄塀が立ち、コンクリート製のダンプカーの洗い場まで作られていましたが、1986年8月市はついに全面的に埋め立て中止を決め、やがて工事跡もきれいに復元されました。
地域の住民の提案を受け入れ、広く市民とのコミュ二ケ-ションをとらぬまま開始した事業の苦い中止であったと思いますが、あの段階まで進めた工事から撤退した豊中市にも敬意を払いたいと思います。このように安場池は、中央公園の自然としての役割を果たしているだけでなく、東町の住民パワーと千里の人達の自然保護への熱意を語る記念碑としても存在しているのです。
この内容は中山氏の小論文「安場池は残った」東町3団体創立周年記念誌(1998)、千里タイムス(1984~1985)の関連記事の一部および当時の個人的な記憶をまとめたものです。豊中市はこれに関して開示出来る記録はないとの事でした。当時の関係者の多くは転出されたり他界されたりしています。もし当時の資料をお持ちの方がおられましたら当紙編集委員にご連絡ください。