平安時代に詠まれたこの和歌の「寝山」とは、北摂山地と淀川低地の間に半円型に広がる千里丘陵を「虎伏す寝山」にたとえて詠まれたものだそうです。豊中地域に人々が住みついたのは旧石器時代からで、千里川を挟む桜井谷周辺には5~8世紀にかけて須恵器を生産していた井谷古窯跡群があります。近世までは雑木林や竹林の中に農村が点在する田園地帯でした。千里丘陵が変容したのは昭和30年代後半からで、千里ニュータウンの造成と大阪万博の開催(昭和45年)を機に大がかりな開発が進み、新御堂筋線、中国自動車道、北大阪急行、大阪モノレールなどの開通で千里中央地区は近代的なビルがひしめく北大阪の新都心となり、丘陵の原風景は殆ど失われました。このモニュメントはその千里丘陵の歴史を顕彰する目的で平成4年に設置されたものです。すべての形は、丸、三角、四角でできていることから、丸で平和と愛、三角で飛躍、四角で安定と誠実を表現しています。
今日では正に千里タワーマンションに圧倒されこの等身大の彫刻に気づく人も少ないのではないでしょうか。
作者は三枝惣太郎で、フジサンケイグループ「街角の再発見大阪モニュメント計画」により関西電力から大阪府に寄贈されています。
「大阪モニュメント計画」の事業は既に終了していますが、昭和62年6月から平成6年3月までの間に大阪府下の86カ所に設置されました。岡町や池田で同じような顕彰碑を見かけた方も居られるのではないかと思います。顕彰碑にはその場所の歴史、由来が刻まれています。この文の大半も顕彰碑に刻まれた文から引用させてもらいました。
調査森岡文責・写真栁原